ゴールデンカムイと帝一の國で自分が感じたことについて

ゴールデンカムイ帝一の國のネタバレあります

主人公(に近い)キャラの場合は「父」を相対化し、悪役の場合は子供の方が悪を引き受けて父を絶対化する法則が物語にあると思う
物語の舞台も世界観も違う2つの作品だけど共通点があるとしたら「物語が父を完全には相対できない(完全に相対化すると物語が破綻する)」ことだと私は思ってて、ゴールデンカムイ帝一の國も父親キャラ個人については間違ってた点があるという描写もあるから(鯉登父・帝一父)キャラによっては父が相対化してるけど、悪役ポジションのキャラの場合は子供の方が悪を引き受ける構図(高天原裕次郎・尾形)になってて、主人公(に近い)キャラのときは父を相対化するのに悪役のときは父が絶対化する構図になってると私は勝手に思ってる(親の方に原因があって子供が悪を体現してるのに悪役キャラの場合は子供本人だけの問題だと因果関係が逆転してる)

ゴールデンカムイの鯉登と尾形で比較すると、鯉登の場合は鶴見中尉と初対面のとき「(父に)叱られない」と「親の方にも原因があることを物語の文脈が認める」構図にってることに対して、尾形の場合は「実は両親は愛し合ってたのでは?(自分の所業が無意味だった)」と「子供の方にだけ原因がある(親に原因はない)と物語の文脈で認める」構図になってて、物語が父を相対化しきれない感があると私は勝手に思ってる。