「FF4」カインとセシル・ローザの話が噛み合わない理由について

※「ファイナルファンタジー4」のネタバレを含む、自分の解釈があるので、本記事を読む方はご注意ください

 

カインは責任を取る・追及されるときしか本音で話さないのではないかと思う

敵に回ってるとき以外の状況では、カインはミストの村でセシルとバロンを裏切るか決めるときと、またゼムスに洗脳されたらどうするかをエッジに聞かれたときは本音でしゃべってると自分は感じて、カインはセシルとローザとの会話でもあまり本音で話すことがないから、セシルとローザがカインの気持ちを把握できなかったというのはあると私は思ってる。

科目数が少なく高い偏差値が成立する理由について

※科目数が少なく高い偏差値が成立する理由について、自分が思ってることを書いてるので、本記事を読む方はご注意ください

 

科目数が少ない方が「苦手科目を避けれる」ため、私大の偏差値が高く算出されると思う

偏差値そのものの話題はたくさん見かけるのに、偏差値の計算方法への言及を自分はあまり見たことがないと思う。

地方国公立大の偏差値が低く私大の偏差値が高く出るのは、「苦手科目を勘定に入れず得意科目だけで勝負する」と、高得点の科目だけで偏差値を算出できるから、科目数が違う大学同士の比較は擬似的に科目数を揃えた状態で計算しないと、国公立大と私大の偏差値の比較が成立しないと私は思ってる。

陽キャ概念がなかった時代の創作について

※陽キャ概念がなかった時代の創作について、自分が思ってることを書いてるので、本記事を読む方はご注意ください

 

陽キャのノリを男子校限定のノリとして描写してるのではないかと思う

陽キャという概念がなかったから、共学でもありそうなノリを、男子校限定のノリとして描いてる作品があるのではないかと私は思ってる。

日本は根本的に整合性を考える教育が足りてないのではないかと思う

※日本は根本的に整合性を考える教育が足りてないことについて、自分が思ってることを書いてるので、本記事を読む方はご注意ください

 

受験のゴールである東大が「釣り」として機能する構造になってると思う

長期的な努力に当たるはずの受験のゴールである東大が、一部の人にある種の「釣り」として機能するのは、既存の学校教育では整合性を考える機会がないからで、小説等の創作で登場人物を俯瞰で見ることを「現実世界でも常にできるタイプ」の人でもないと、釣りに引っ掛からずに整合性を考えて行動するのはかなり難しいのではないかと私は思ってる。

「ケントゥリア」ルーカスとチート物について

※「ケントゥリア」100話までのネタバレを含む、自分の解釈と感想があるので、本記事を読む方はご注意ください

 

ルーカスの異能の内容は、チート物が成立する具体的な条件ではないかと思う

ルーカスの魔槍と盾の異能は、チート作品でチートが成立する条件を別の言い方で表してるもので、魔槍が「相手の概念を破壊して無効化する」ことでチートなら、盾は「相手の加害を無力化する」ことでハーレムが成立すると私は思ってる。

既存の作品で説明できなかったことを説明できる作品が出てきたときに、自分は創作の進歩を感じる。

「ポケモン」カリンの知名度について

※「ポケモンHGSS」のネタバレを含む、カリンの知名度について、自分が思ってることを書いてるので、本記事を読む方はご注意ください

 

プレイヤー視点ではカリンの知名度は東大と同じではないかと思う

ポケモン界隈でのカリンの知名度を世間に換算すると、「強いポケモン弱いポケモンそんなの人の勝手~」のセリフから、カリンと東大の知名度は同じではないかと思う。

 

追加するタイプは最強枠の「無効化」のためではないかと思う

第一世代がミュウツー等のエスパータイプが猛威を振るう環境で、エスパータイプの技を無効化する調整のために、第二世代で悪タイプを追加したのではないかと私は思ってる。

第六世代のフェアリータイプは、悪・ドラゴンタイプのサザンドラを無効化するためだと思う。

作家と読者の関係を共依存として認識する風潮が苦手なことについて

※作家と読者の関係を共依存として認識する風潮が苦手なことについて、自分が思ってることを書いてるので、本記事を読む方はご注意ください

 

作家の人生を支えるのは読者の責任ではないと思う

作家・読者の関係を共依存として第三者が認識する風潮が自分はあまり好きじゃなくて(村上春樹とハルキスト的な括りが)、進撃の巨人ブームのときも作者に入れ込む?みたいなことがピンと来なくて、作家と読者を他人同士ではなく共依存として認識する文化は、メディアが作り上げたものだと私は思ってる。

特に根拠のない自分の推測だけど、作家は読者を他者として認識する人が大半だと思う。

自他の区別を重視する作品ほど、作家と読者は共依存としてメディアでネタにされる矛盾があるような気がする。