ゴールデンカムイ17巻の勇作・尾形の回想は「メタ的には勇作が尾形の罪悪感を試し行為してる」構図ではないかと思う

ゴールデンカムイのネタバレあります

31巻から逆算すると勇作と尾形は仲良かった時期もあると思ってる
31巻の尾形の記憶の映像から勇作と尾形の関係については上手く行ってた時期もあると私は思ってて、31巻で尾形のエピソードが収束したこととは別に17巻の回想は勇作が尾形に関わったことがきっかけなら「メタ的には勇作が尾形の罪悪感を試し行為してる」構図になってると私は勝手に思ってる。
17巻回想に「尾形が勇作に興味を持つのは義務」という前提が物語にあると私は思ってて、31巻の「勇作だけが愛して~(だから罪悪感ある)」は17巻回想の前提で考えると「尾形が勇作に興味を持ったから罪悪感ある」という意味にもなると私は思う。

ゴールデンカムイの勇作とマヴァール年代記のヴェンツェルは物語の文脈の力で逆のタイプになってるキャラではないかと思う

ゴールデンカムイとマヴァール年代記のネタバレあります

善性に自覚的だと勇作・悪性に自覚的だとヴェンツェルで、生き方が逆方向なだけで本質は同じじゃないかと思う
ゴールデンカムイの勇作は善性に自覚的で悪性に若干無自覚のキャラだと思うけど、マヴァール年代記のヴェンツェルが「悪党になりたがってる」とリドワーンに評価される理由は「ヴェンツェル本人に無自覚の善性があるから完全な悪党になりきれない」という意味だと私は思ってる。
ゴールデンカムイの勇作は善性に自覚的で悪性に若干無自覚(咄嗟に出る言葉が相手視点でキツイ)のキャラでマヴァール年代記のヴェンツェルは悪性に自覚的で善性に若干無自覚なところが真逆になってて、生き方が逆方向だけど本質的には同じタイプの人間じゃないかと私は勝手に思ってる。
ヴェンツェルの実質的な悪事を引き受けるキャラに当たるラザールはゴールデンカムイだと尾形に近いタイプのキャラではないかと私は思う(マヴァール年代記について自分が理解してない部分があるから合ってるかわからないけど)

ドラクエ2のローレシア王子への呪いイベントに当たるものについて考えてみた

ドラクエ2のネタバレあります。記事の内容について追記・変更あります

ハーゴンの神殿に入ったら内部が幻のローレシア城の風景になる理由はメタ的にはローレシア王子への呪いイベントとして機能してるからではないかと思う
ローレシア王子に呪いイベントが特に存在しない理由はハーゴンの神殿の風景が最初はローレシア城になってること自体がローレシア王子の呪いイベントに当たるものだからだと私は思ってて、幻のローレシア城を呪いイベントとしてカウントすると原作の時点で呪いイベントが特にないのはサマルトリア王子だけだからリメイク版でサマルトリア王子の呪いイベントが追加されたんだと私は勝手に思ってる。
ハーゴンの神殿である幻のローレシア城で王が「ハーゴン様はいい人だ」みたいなことをリメイク版で言ってる理由はローレシア王子にとっての呪い(嫌なこと)は「本来倒すべき敵をいい人として認識することで対峙できなくて倒せないこと」だからではないかと私は思う。

ドラクエ2はムーンブルク王女視点では「疑似的に母を倒して主体となる物語」じゃないかと思う

ドラクエ2のリメイク版のネタバレあります

リメイク版のムーンブルク王女は物事を解決する主体者としての印象が上がったと思う
ドラクエ2のリメイク版はサマルトリア王子が呪われる任意イベントが追加されたことでムーンブルク王女も仲間の呪いを解くための行動をストーリーですることになって、「ハーゴンに呪われる被害者はムーンブルク王女だけではない」という前提を作るためにサマルトリア王子の呪われるイベントがあるのではないかと私は思ってる(ハーゴンの呪いの被害者は男性でもあり得るという意味だと思う)

呪いイベントが両方にあることでサマルトリア王子ムーンブルク王女と疑似的に同時に出会う構図になって、物語に男性が客体・女性が主体というパターンが増えたと思う
サマルトリア王子が呪われるイベントはムーンブルク王女が仲間になった後のイベントとして仲間加入イベントを再現することで、ローレシア王子視点ではムーンブルク王女と先に出会ってサマルトリア王子の方が後に出会う状況になって「ローレシア王子視点で疑似的に2人と同時に出会う状態にするため」と自分がかなり前の記事で書いたことあったけど、2人と同時に出会って更に「ムーンブルク王女は呪われる被害者の立場だけでなく仲間の呪いを解く主体者」という前提を物語に作るために追加イベントがリメイク版にあるんじゃないかと私は思ってる。
仲間の呪いを解く主体者となることで被害者の立場だけではないという意味で疑似的な母〇しの試練でもあると私は勝手に思ってる。

追記
創作での母親との関係が複雑で他人への罪悪感を認めない男性キャラとなんとなく逆パターンっぽいと思って、ムーンブルク王女について本編で母親の情報は特にないけど罪悪感を否定しないという意味で精神的に母親を乗り越えてるイメージが自分の中にあったと思う。

自分の不調を認められないときほど自分の気持ちが暴走していった気がする

※この記事は負の感情についての話がメインなので苦手な方は回避してください。記事の内容について追記・変更あります

自分のイライラの原因が自分の内側にあることに気付かずに外側に原因を探してたときは創作物とかにイライラしてた気がする
自分の感情に自分で気付かなくて「他にイライラの原因がある」と思い込んでたときはそこまで感情移入してたわけでもなかったはずの創作物に原因があると思って外側に原因を求めて見つからないというのを繰り返してたような気がする。
自分も気を付けなくてはいけないけど、自分の気持ちが暴走してるような状態は「自分の気持ちは自分自身の方に原因がある」という発想がなくなって「相手の言動が自分の気持ちをコントロールしてるという錯覚にハマってる」状態なんじゃないかと私は勝手に思ってる(文字のやり取りだけで相手の気持ちを揺さぶることは本来は対面での会話以上に難しいことのはずだから)

鉄血のオルフェンズ20話のオルガとビスケットについて思ったこと

鉄血のオルフェンズのネタバレあります

鉄華団の仲間を安全な世界に連れて行きたいと「上がりはデカい方がいい」が矛盾してることをオルガ本人が自覚してないからビスケットとの喧嘩がねじれてると思う
20話を見て自分が思ったことだけど、オルガは「上がりはデカい方がいい」と「どの方法を選んでもリスクは同じと決めつけてる」の2つの価値観がビスケットの価値観と対立してて、「どの方法を選んでもリスクはある(意訳)」というオルガのセリフは「やり方次第では見返りも減るけどリスクも減らせる方法がある(意訳)」とビスケットに指摘されてもオルガがピンと来てない感あることが私は気になって(ビスケットとの話の後に「俺は焦ってるのか」というセリフはあるけど)、オルガは切った張ったしなくて済む世界に鉄華団の仲間を連れ出したいという発想があるのにハイリスクハイリターンになる方法以外を選ぼうとしないことがビスケット視点では不思議だったんだろうなと20話までの時点(作品は完結してるし20話の後も話が続くけど)でも私は感じたと思う。

追記 ビスケットの言う「仲間のことを考えろ」について
ビスケットがオルガに言った「仲間のことを考えろ」は「三日月以外の鉄華団の仲間のことを考えろ」という意味だと私は思ってて(セリフでは三日月への言及は一切ないけど)、ビスケットはオルガがリスクのある方の選択肢を敢えて選ぼうとしてる理由が「三日月がオルガのために命を懸けてることに応えるためにオルガはリスクのある方の選択肢を選んでることをオルガ本人が自覚してない」ことをわかってるから、物語の事情もあって三日月に言及せず若干言葉足らずな言い方でオルガに反論する形になってるんだと私は勝手に思ってる(メタ的にはオルガが三日月の期待に応えるためにリスクの高い選択をしてることに言及するキャラがいると物語が破綻するのではないかと思う)

ロマサガ3のエレンは「孤立しない仕組みが世界にあるキャラ」ではないかと思う

ロマサガ3のネタバレあります

エレンは主人公のときと仲間のとき両方でサラと喧嘩したり・ユリアンの告白を断って「相手を受容しない」行動を取っても特に孤立しないのが面白いと思った
エレンがというよりサラとユリアンがエレンのパーティーに入る選択肢を持ってるキャラだからというのが大きいけど、エレンは妹のサラが自立の話をしたとき喧嘩したり・ユリアンの告白を断って「相手を受容しない」行動を取っててもその後にサラとユリアンがパーティーに入る選択肢があって「相手を受容しなかったとしてもその後はずっと孤立するというわけでもない」というのが極端じゃなくて面白いと私は思ってる。
OPイベント後にハリードに「(シノンの)みんなはやることあるけどお前だけすることないのか」と言われてエレンが言い返してたけど「シノン以外のキャラも仲間になるからシノンのみんながいなくなっても孤立するわけでもない」という仲間キャラが多いことで「一人を強調される割に孤立しない仕組み」がエレンに有利に働いてると私は勝手に思ってる。
エレンは主人公のときと仲間キャラで加入するときで印象がほとんど同じでどの主人公でも仲間にできる理由はエレンが「絶対に孤立しないという根拠のある自信を持ってるから」ではないかと私は勝手に思ってる。