試験や試合のように「そのルールの枠組みで得点する方法(正解)が決まってる」こと以外の事例でそのやり方では解決しない可能性が高いことで「ギリギリまで粘る」のはむしろ悪だと思うことについて

最後まで諦めない・ギリギリまで粘るが有効な可能性が高い事例はスポーツや試験のように「ルールが明確に決まってる」ことだけではないかと思う
そのルールの枠組みで正解を見つければ確実に解決すること以外の事例ではむしろギリギリまで粘らず「そのやり方では解決しないことがわかった時点で別の方法を探したり最初のやり方では解決しないことを潔く認める(最初のやり方では解決しない場合は)」ことの方がいつまでもギリギリまで粘るに固執するするよりいいんじゃないかと私は思ってる。
引き合いに出すのは不謹慎かもしれないけど、壊れてるのにそのまま使って(使わせて)事故が起きたという事例は「物は壊れてもギリギリまで使うのが当たり前(新しいものを買えば解決できると思うのは悪いことだ)」的な精神論を指示してる人間が持ってたことも原因になってるのではないかと私は思ってる(擁護ではありません)

建国から王朝時代の歴史も内戦に関係あるのではないかと思ったことについて

ルワンダ建国の時点では王はツチ族の人間で、ベルギーが植民地支配でツチ族を冷遇しフツ族が優位になって民族の立場が王朝時代と逆転したことも理由じゃないかと思う
王朝時代のツチ族フツ族の関係は主従というほど封建的な関係性ではなかったのかもしれないけど(王朝時代について検索しても民族間での支配の話が特に見つからない)、フツ族視点では建国の時代から「自分達が国家の頂点に立ちたい」という心情があって後世にもその精神が受け継がれていたとしたら、ツチ族視点での「王朝時代にツチ族から王を選出してフツ族より上の立場になったという負い目」とフツ族視点での「ツチ族より強い立場になりたいという願望」の両方が当時のルワンダの人々に作用してルワンダ内戦にまで繋がった可能性あるんじゃないかと私は思ってる(推測なので実際のところはわからないけど)
ルワンダ内戦について大統領等の当時を知る人が外側の人間には理解されないと考えてる理由は内側で生きる人の歴史を知らないとわからないからではないかと私は思う。

Shrinkの発達障害当事者の女性の話が自分にとって読みやすかった理由は「他者は自分とは違う人間」という前提が物語で徹底してたからだと思う

※Shrinkの発達障害当事者の女性のエピソードのネタバレあります

女性は他人を受容する役割という前提がないから読みやすかったのではないかと思う

Shrinkを自分は全部を読めたわけではないけど、発達障害当事者の女性のエピソードが「本人視点で困難がある話」にも関わらず一方的に断罪されたり・責められるキツさをあまり感じない理由について自分で考えてみたら「相手を無条件に受容しろ(相手は正しい)」という文脈がなくて、「当事者と当事者以外の人が一緒に社会で共存するためにはどうすればいいか」みたいな「双方に対して一方的な受容を求めない話」だったから、その話は一方的に責められるような読後感がないエピソードになったのではないかと私は思ってる。

創作で「身体について張り合う」キャラはその性別の社会規範を強いられていない状態を異性で実現してる状態ではないかと思う

※この記事は創作での性別の社会規範の描写と関連して筋肉についての言及と前に書いた内容から追記・変更あります。ゴールデンカムイ鋼の錬金術師のネタバレあります。

ゴールデンカムイの鯉登は女性の社会規範を強いられてない女性キャラのような立ち位置で男性の社会規範を部分的にやってる男性キャラだと思う
ゴールデンカムイ樺太編のスチェンカとバーニャを「筋肉を張り合ってる」としてカウントすると、鯉登は男性の社会規範に忠実なタイプではなさそうな描写だから男性キャラだけど女性の社会規範を強いられてない女性キャラの立場に近いと私は思ってる。
鶴見中尉と鯉登の関係は21巻までは鶴見ー主体 鯉登ー客体という関係だと思うけど、21巻で誘拐劇の事実に気付いてから徐々に主体ー客体だった関係性が変化して30巻で鯉登の方から当時の誘拐劇の話を鶴見中尉に言ってからは鶴見中尉と鯉登の関係は完全に主体ー主体になったと私は思う。

アームストロング姉弟は身体について漫画のお約束を制覇してると思う
ハガレンのアームストロング少佐はイシュヴァールの戦場では臆病者と評価されてて男性の社会規範に忠実なタイプじゃないから、筋肉を張り合うのは女性の社会規範を強いられなかった女性キャラ的な意味があるんじゃないかと私は思ってる。
単行本のおまけページでアームストロング姉弟の身体についてイラストで言及あるのは姉のオリヴィエが女性キャラだけど男性の社会規範を強いられなかった男性キャラの立場に近いことを示してると私は思う(ハガレンは漫画のお約束に当たる胸と筋肉の張り合いについておまけを含めたら両方相対化してる作品だと思う)

創作で女性が男性を全面的に受容するイメージを変えるには「女性が主体者として具体的に考える」構図が有効だと思う

鉄血のオルフェンズダイの大冒険のネタバレあります

否定や批判みたいにわかりやすい反撃より相手(の考え)を受容する立場である本人が「具体的に考える」ことが「受容の構造」を壊せる方法じゃないかと思う
とにかく反対・否定さえすれば相手をただ受容する流れから変わるかというと「受容の逆の行動に置き換わっただけで構造はそのまま温存してる状態」だと思うから、物語で相手を受容することを求められてる立場のキャラ(ダイ大のソアラ鉄華団のオルガ以外)は「事態を好転させる方法を本人が具体的に考える」ことで「ただ相手(の考え)を受容するだけ」の構造を壊せるのではないかと私は思ってる。

鉄血のオルフェンズ鉄華団は「受容することと引き換えに具体的に考えない」構造だと思う
鉄血のオルフェンズでオルガ以外の鉄華団のメンバーは男性キャラでも女性の社会規範が機能することで、「他のメンバーは具体的に考えることを放棄することで考える立場であるリーダー(オルガ)を受容する」という構造になってると私は思う。
オルガ視点だと「オルガ本人が考えることで他のメンバーが具体的に考えない状態を受容する」構造になってると私は勝手に思ってる(逆にしてるだけだから書いてることは同じなんだけど)

受容する側のキャラ本人が具体的に考えないパターンが創作全般で少なくない理由は受容する側が具体的に考えると自分の考えがゼロじゃない状態になることで「相手の考えを全面的に受容することが破綻する(自分の考えがある以上は相手を全面的には受容できない)」から、受容する側のキャラは具体的・計画的に考える行動をメタ的に取れず突発的に相手を受容する行動になるパターンが多いのではないかと私は思ってる。

ダイの大冒険のロカ(マァム父)とソアラ(ダイ母)はメタ的に同じ立ち位置なのではないかと思う

ダイの大冒険のネタバレあります

ロカが亡くなった経緯・エピソードが特に存在しない理由はメタ的にソアラと同じ立ち位置に当たるからじゃないかと思う
ソアラ(ダイ母)と違ってロカ(マァム父)は主人公の親ほど物語で重要な立場じゃないからかもしれないけどなぜ亡くなった理由を誰も語らない理由について、ロカ・レイラはバラン・ソアラとは逆パターンで「ロカはソアラとメタ的には同じポジション」で「経緯やエピソードを省略しても物語の文脈として成立する」から、マァム父が亡くなった経緯は物語で謎のままになってるんだと私は勝手に思ってる。

ダイの両親以外は女性が聖母として男性を受容する構図を外してるパターンの方が多い気がする
自分の想像だけどマァムの両親はダイの両親の逆パターンとして性別の社会規範が逆転してる可能性としてあると私は考えてて、ロカが自分の本音(弱さ)を隠すときに嘘で逆のこと言う癖をレイラが見抜ける(確かスピンオフであったはず)理由は「男性本人が弱さを自分で(女性キャラに仮託せず)引き受ける」という構図で、マァムの場合は「聖母として男性を受容する女性の構図を外すため」にヒュンケルとは恋愛が成立しなかったのではないかと私は思ってる。
ポップがメルルと恋愛が成立しない理由も「女性が男性を全面的に受容する構図を外すため」だと私は勝手に思ってる。

ケントゥリアは「母親のために犠牲になる息子」という連鎖を打破する物語じゃないかと思う

※ケントゥリアのネタバレあります

物語の裏主人公はミラじゃないかと思う
2話の時点では既にいない人間なのに「物語でのミラの存在感が大きい」ように感じることが自分にとって不思議で、1話では「自分を庇って死んだ息子を今度は守る」というミラの後悔を解決するためにユリアンが存在してるように見えて、1話・2話の描写ではだけどミラは夫のために犠牲になることは夫が生きてたときも意識してなさそうなところが「自分より強い男性をただ受容する女性の構図とも若干違う」と私は思ってる。
ユリアンはメタ的にはミラの亡くなった息子(ディアナの兄)と同一の存在みたいな要素はあると私は勝手に思ってる(メタ視点では同一に見えるだけで物語の世界の現実ではユリアンとミラの息子は他人同士だけど)