創作で女性が男性を全面的に受容するイメージを変えるには「女性が主体者として具体的に考える」構図が有効だと思う

鉄血のオルフェンズダイの大冒険のネタバレあります

否定や批判みたいにわかりやすい反撃より相手(の考え)を受容する立場である本人が「具体的に考える」ことが「受容の構造」を壊せる方法じゃないかと思う
とにかく反対・否定さえすれば相手をただ受容する流れから変わるかというと「受容の逆の行動に置き換わっただけで構造はそのまま温存してる状態」だと思うから、物語で相手を受容することを求められてる立場のキャラ(ダイ大のソアラ鉄華団のオルガ以外)は「事態を好転させる方法を本人が具体的に考える」ことで「ただ相手(の考え)を受容するだけ」の構造を壊せるのではないかと私は思ってる。

鉄血のオルフェンズ鉄華団は「受容することと引き換えに具体的に考えない」構造だと思う
鉄血のオルフェンズでオルガ以外の鉄華団のメンバーは男性キャラでも女性の社会規範が機能することで、「他のメンバーは具体的に考えることを放棄することで考える立場であるリーダー(オルガ)を受容する」という構造になってると私は思う。
オルガ視点だと「オルガ本人が考えることで他のメンバーが具体的に考えない状態を受容する」構造になってると私は勝手に思ってる(逆にしてるだけだから書いてることは同じなんだけど)

受容する側のキャラ本人が具体的に考えないパターンが創作全般で少なくない理由は受容する側が具体的に考えると自分の考えがゼロじゃない状態になることで「相手の考えを全面的に受容することが破綻する(自分の考えがある以上は相手を全面的には受容できない)」から、受容する側のキャラは具体的・計画的に考える行動をメタ的に取れず突発的に相手を受容する行動になるパターンが多いのではないかと私は思ってる。

ダイの大冒険のロカ(マァム父)とソアラ(ダイ母)はメタ的に同じ立ち位置なのではないかと思う

ダイの大冒険のネタバレあります

ロカが亡くなった経緯・エピソードが特に存在しない理由はメタ的にソアラと同じ立ち位置に当たるからじゃないかと思う
ソアラ(ダイ母)と違ってロカ(マァム父)は主人公の親ほど物語で重要な立場じゃないからかもしれないけどなぜ亡くなった理由を誰も語らない理由について、ロカ・レイラはバラン・ソアラとは逆パターンで「ロカはソアラとメタ的には同じポジション」で「経緯やエピソードを省略しても物語の文脈として成立する」から、マァム父が亡くなった経緯は物語で謎のままになってるんだと私は勝手に思ってる。

ダイの両親以外は女性が聖母として男性を受容する構図を外してるパターンの方が多い気がする
自分の想像だけどマァムの両親はダイの両親の逆パターンとして性別の社会規範が逆転してる可能性としてあると私は考えてて、ロカが自分の本音(弱さ)を隠すときに嘘で逆のこと言う癖をレイラが見抜ける(確かスピンオフであったはず)理由は「男性本人が弱さを自分で(女性キャラに仮託せず)引き受ける」という構図で、マァムの場合は「聖母として男性を受容する女性の構図を外すため」にヒュンケルとは恋愛が成立しなかったのではないかと私は思ってる。
ポップがメルルと恋愛が成立しない理由も「女性が男性を全面的に受容する構図を外すため」だと私は勝手に思ってる。

ケントゥリアは「母親のために犠牲になる息子」という連鎖を打破する物語じゃないかと思う

※ケントゥリアのネタバレあります

物語の裏主人公はミラじゃないかと思う
2話の時点では既にいない人間なのに「物語でのミラの存在感が大きい」ように感じることが自分にとって不思議で、1話では「自分を庇って死んだ息子を今度は守る」というミラの後悔を解決するためにユリアンが存在してるように見えて、1話・2話の描写ではだけどミラは夫のために犠牲になることは夫が生きてたときも意識してなさそうなところが「自分より強い男性をただ受容する女性の構図とも若干違う」と私は思ってる。
ユリアンはメタ的にはミラの亡くなった息子(ディアナの兄)と同一の存在みたいな要素はあると私は勝手に思ってる(メタ視点では同一に見えるだけで物語の世界の現実ではユリアンとミラの息子は他人同士だけど)

読書のメリット・デメリットについて自分が思ったこと・ドラクエ3の本について

※この記事は最初の内容から追記・変更とドラクエ3のネタバレがあります。本文はデメリットの話の方が多いです。

読書のメリットが知識・情報を得られることなら読書のデメリットは「その本の世界観にハマる可能性があること」ではないかと思う

読書のデメリットについて自分がたまたま見かけた意見で「その本の世界観にハマる」可能性があるから本を読むことを無条件には大丈夫とは言えないという意見があって、本を読むことについてデメリットの方を根拠で示してる意見はあまり見ることなかったから珍しいと私は感じた記憶がある(自分が観測したことないだけかもしれないけど)
「その本をきっかけに入信した」みたいな事例もあるから、本の選び方に対して警戒心を持つのは悪いことじゃないと私は勝手に思ってる。

追記 リメイク版ドラクエ3の本について
リメイク版ではナジミの塔の老人が「読んだだけで性格を変えるほど影響力のある本があるから読むときは気を付けた方がいい(意訳)」というセリフがあるけど、FC版からある賢者になれるさとりの書とは別に「本が読む人に与える影響はいいこと・悪いことの両方の可能性がある」という「都合のいいことだけ起こるとは限らない」みたいなニュアンスがリメイク版に追加されてることが面白いと私は思ってる。
商人の町で勇者が革命前夜に住民の話し合いに遭遇することがリメイク版では必須になったことも「他者視点が入ることで都合の良さを相対化する文脈」なんだと私は勝手に思ってる。

「絶対的な善人」という見方について

直接関わりのない人の不祥事等のニュースに対して「悪いことする人間だと思わなかった」みたいな反応することが不思議だった
少し前にテレビで不祥事に関するニュースがあったときに自分の父親が「紳士だと思ってた。不祥事を起こす人間だと思わなかった」みたいなことを言ってたことがあって、「自分ではない他人が何を考えてるか・どんな行動に出るか」なんて他人は自分と同一人物ではない以上わかるわけないのに、直接関わりのない人間が「絶対的な善人」だと自分の父がニュースを見るまで決めつけてた理由がよくわからないなと思った記憶が自分にある。
ニュースを見るまでどういう人間かわからなかったというのは他人視点だとそうなって当たり前だと思うけど「絶対的な善人がいる」という発想は裏を返すと「絶対的な悪人・ク〇」がいるということでもあるから、行動に対して功罪を判定するのではなくこの人物は絶対的な善・絶対的な悪と決めつけるのはおかしいと私は思う。
2022年後半~2023年前半くらいの時期に父親が今より機嫌が悪かった理由はコ〇ナの第〇波で社会全体での感染拡大のピークと家の事情だけでなく、「究極の善人概念と自分が比較されてク〇判定されてた」というのも理由としてあるんじゃないかと私は今なら思う。

FFタクティクスのアルガスと帝一の國の菊馬は主人公のライバルとして機能することで物語にラスボスを出現させてるキャラだと思う

※FFタクティクスと帝一の國のネタバレあります

アルガスと菊馬は似た境遇じゃないかと思う
アルガスはFFタクティクスのラスボスの出現には特に関与してない立ち位置のキャラだけどジークデンの砦の一連の出来事はFFタクティクスの物語としては必須だから、メタ的にはアルガスの行動がその後のストーリーでのラスボスの出現やディリータの人生にかなりの影響を与えてるみたいなところはあると私は勝手に思ってる。

菊馬の「光明を偵察に行かせて洗脳されたのは光明を大事にしなかった帝一の自業自得だ(意訳)」セリフはアルガスのラムザに対する「親友という割にディリータを利用してる(意訳)」というセリフと同じ意味で、裏設定では貴族であることにこだわった母の価値観の影響を受けてるらしいアルガスと比較すると、菊馬は父の影響で帝一をライバル視してるだけでなく「母の影響」もあるのではないかと私は思ってる。

人間関係の愚痴を否定されずに聞いてほしい人は「関係性を改善したい」ではなく「その相手と縁を切りたい」が本音ではないかと思う

客観的に性格悪い本音を言わなければいけないときは正直に言えないから「聞いてほしい」としか言わないんじゃないかと思う
自分が相手に合わせて変わって関係性を改善しろというアドバイスを受け入れたくないときは「その相手と縁を切りたい」というときで、客観的にいい・悪い関係なく「本音」の部分が相手と縁を切る方向で本人が無意識に考えてるから「自分はこうしたい」という方向性が実はあるにも関わらず、相手に話を聞いてもらわなければ解決しないという思い込みで愚痴を言ってるだけだと私は勝手に思ってる。