パワプロは野球に「興味を持つ」ことへのハードルを下げたゲームじゃないかと思う

少なくとも野球に「興味を持つ」ハードルはそんなに高くないと思えた気がする
パワプロと実際に野球をすることは別物だとしても、野球自体に興味を持ったり・知ることは一部の詳しい人にしか出来ないことではなく誰でも気軽に出来そうなことだとキャラが試合してる様子を見て感じられてたことに意味があると私は勝手に思ってる。

タクティクスオウガは「冷静さ」がなぜ必要かを示してる物語じゃないかと思う

タクティクスオウガのネタバレあります

個人の理想・情熱が必ずしも肯定されるわけじゃないところが面白いと思う
物語だと特に主人公の理想・情熱については全面的に肯定されることが少なくないと思うけど、バルマムッサでの虐〇ルートを選んだときは確か後になってデニムが過ちを認める流れがあること・シェリーが本人の感情と意思の赴くままに行動してデニムと対立する流れについては「個人の理想・情熱は他者視点では悪になる可能性もある(理想・情熱が他者視点では正義とは限らない)」という点がはっきり描写されてることがよかったと私は勝手に思ってる。

リメイク版のラヴィニスのセリフは正当化とは違う意味で個人の判断には本人だけでなく他人の影響が含まれてることを示してると思う
虐〇ルートでのデニムに対するラヴィニスの「若者の力に甘えて責を負わせてしまった(意訳)」セリフは「個人の判断は集合体の影響もある程度は受ける」という意味で言ってると私は勝手に思ってる。
主人公を免責してるというより人間はお互いに影響を与えたり・受けたりして生きてる以上は100%本人だけの意思でその判断をしてるわけでもないという意味じゃないかと私は思う(その判断自体は本人がやってることだし、正当化とは違うニュアンスで言ってると思う)

学校システムは同級生を他人以前に「友達という概念」で捉えることを先に教えるから、自他の区別を理解するのに自分は時間が掛かった気がする

※学校システムを闇雲に叩く目的の文章ではありません

友達以前に「自分と同一人物ではない他者」であることを強調して教えていいと思う
学生のときは友達とか先輩・後輩という概念での区切りを意識せざるを得なくて「学生のとき出会った人を友達とか概念から来るイメージを優先した認識」になってたことことが、昔出会った人に対して「他者」として自分が客観的に認識できるようになるまでに時間が掛かった原因だと私は思ってる。

創作の女性攻め恋愛ものは主人公(女性)の仲間の男性キャラ複数人が「親友同士で主人公との関係が恋愛・友達とも違う」パターンが自分の好みだと思うことについて

※投稿サイトの作品に言及してます

主人公に対しては仲間だけど他人として機能してる点が自分にとって斬新だったと思う
その作品は支部にある拷問系の女性攻めにBLが複合してる物語(おそらく)でコメント欄が設置されてなかったはずだからこれ以上は具体的に書かないけど、主人公の女性攻め恋愛とは無関係に「他人が友情・恋愛してる」ことは特別珍しい描写ではないけど読みやすくて面白かったと私は思ってる。
主人公の恋愛を強調する意図ではなく、その仲間キャラ主体の友情がある点が主人公とは別に機能してる世界が存在することを感じさせられて別の視点が見えたような面白さだと私は勝手に思ってる。

 

ドラクエ3のオーブの所有者はメタ的には勇者の悪性を引き受けるために存在してるのではないかと思う

ドラクエ3のネタバレあります

商人が町の発展のために住民を働かせ過ぎたのは勇者の代わりにオーブを入手するためじゃないかと思う
ドラクエ3のリメイク版では商人の町で最終段階直前の時期に3人の男性が町の人間を働かせ過ぎる商人に反発して革命を起こす相談してるところに勇者が遭遇することが必須になってて、他のオーブの場合でもテドンの囚人や海賊みたいに「社会的に悪の立場にいる人間ほどオーブを所有してる」事例がドラクエ3では多いこと自体に理由があると私は勝手に思ってる。
普通に人間社会を生きてるだけではオーブと関わらない人生になるから、社会の常識から外れた生き方をして初めてオーブを入手することができるという経緯でオーブの所有者は囚人・海賊・商人の町で投獄される等の社会的に「悪」の立場になってる人間が多いんだと私は思ってる(テドンの囚人と海賊は実際に悪いことしてるかどうかはわからないけど)

ロマサガ2は「自分のやってることが他者(世界)に影響を与える」という前提が強く機能してる物語ではないかと思う

ロマサガ2のネタバレあります

主人公である皇帝が最後は退位して共和制になることに意味があると思う
設定や世界観だけなら正直に言うとロマサガ3よりロマサガ2の方が自分の趣味に合ってると思ってて(ロマサガ3も好きだし作品の優劣ではなく自分の好みの話)、皇帝がアト王に「人助けと称して他国を侵略してるだけではないのか?」と指摘される選択肢があったりEDで皇帝を退位してバレンヌが帝国から共和国に変わるように「この人だから絶対に正しいではなく善悪の基準は行動で決まる」という文脈が徹底してる点が面白かったと私は思ってる(七英雄の存在が絶対正義の立場がないことを示してるとも思う)
ロマサガ2は伝承法や年代ジャンプ等のシミュレーションゲームの要素が強いことも絶対的に正しい立場は特にないことを示してると私は勝手に思ってる。

鉄血のオルフェンズの昭弘とドラクエビルダーズ2のペロはキャラの成り立ちが同じだと思うことについて

鉄血のオルフェンズドラクエビルダーズ2のオッカムル島のネタバレあります

昭弘とペロはキャラの扱い(というかいじられ方)が同じ文脈っぽく見える
鉄血のオルフェンズを自分が全ては把握してないから合ってないかもしれないけど、昭弘に対する「ガチムチ」・ペロに対する「みんなの宝(バニー)」という他のキャラ視点での評価は「キャラを偶像化」するために物語に入ってる文脈なんじゃないかと私は勝手に思ってる。
昭弘はオルガの考えに合わせるとき以外だと本人が能動的に判断してる・ペロは本人のセリフ的から本人が主体的にバニーになってると仮定したら、昭弘とペロは他キャラ視点での偶像化の文脈が強いことで鉄華団とオッカムル島のストーリーは「物語に社会が存在してない」みたいな状況になってると私は思ってる(ラフタとゴルドンはメタ的には同じ立ち位置だと思う)
特にドラクエビルダーズ2の方はセルジとオンバが主体的に生きてるとしても物語に社会が存在してないことでキャラ本人が割を食う形になってると私は思う。