「厳しい」と「雑」は紙一重の概念ではないかと思う

厳しさ自慢の実態は雑さ自慢のような気がする
自分の母親が言う「自分が子供のときの習い事の先生はOKを出す基準が厳しかった」という話は「基準がわかりにくいなら厳しいというよりむしろ雑ではないか」と今の自分の感覚ではそう思う。

「厳しいんだぞ」という自慢する人が話す厳しいの実態は「再現性が低いことを相手が忠実に再現することにこだわり過ぎて、厳しいというよりはむしろ相手に対して雑」という内容になってて、「厳しい」と「雑」の区別が曖昧だと「客観的に見たら雑という判定になることを厳しいと認識するようになる」のではないかと私は勝手に推測してる。
「雑」と判定されそうなことも「厳しい」の方に寄せて認識する傾向があると思う。
逆に言うと「厳しい」の方に寄せるから「雑」と判定されるものが実態より少なくなってるんだと私は思ってる。

追記
創作物のキャラの分析と考察してから自分が人間の「認識」について考えるようになった気がする。自分と他人は同一人物じゃないし別人という前提がないと他人だけでなく自分でさえ大事にしなくなって、若いから無限に社会貢献できるだろ的な属性で他人を決めつけたり固定観念に流されやすくなるんじゃないかと私は思ってる。

※「自分がエコーチェンバーの原因になったら困る」と書いてるのはこの文章を読んだ人へのいじりの意図は一切なくて「純粋に自分の文章が何かの発端になった困る」という文字通りの意図しかありません。