「ひぐらしのなく頃に」の自分にとっての面白さは事実を相対化する物語であることだと思う

ひぐらしのなく頃にのネタバレあります。この記事のタイトルを変更してます。

初見のときは圭一視点で「何がどうなってるかわからない」感が楽しかった記憶がある
創作物で純粋に楽しかった記憶がある物語はひぐらしで、圭一視点で始まってレナとか魅音とかいろいろなキャラの視点で物語に入れたことが自分にとって楽しい作品という印象になってると思う。
レナが「奇跡が起こらない理由を知ってるよ。あなた本当に信じてた?」と言った後に部活メンバーが羽入に「みんなで行こう」と一緒に戦う流れになったことで、神様で傍観者だった羽入が「当事者として物語に参加することで奇跡を起こせる」カタルシスを物語終盤で私は感じたと思う。

鷹野と羽入の対決と結末は「人間の悪(罪)を神が赦すことで相対化」という構図だと思う
終盤に鷹野の罪を神である羽入が赦すことで「人間の悪(罪)を相対化」する構図で、魅音が部活ではトランプでババ抜きではなくジジ抜きをすると言ってるのは「悪を特定の誰かに押し付けず全体で引き受ける」という意味で、ひぐらしの物語は「悪を特定の誰かに押し付けることに否定的」であることが自分にとってひぐらしの文脈が面白いと感じる理由だったと思う。

追記 レナの「嘘だ」について
鬼隠し編でレナが圭一に隠し事がないか問い詰めて「嘘だ」と言ってる場面があるけど、メタ的にはレナは圭一ではなく羽入に「(奇跡を起こせると信じてるのは)嘘だ」と言ってたんじゃないかと私は思ってる。
羽入は祭囃子編まで奇跡を自分が当事者として起こすことを諦めてたから、レナ視点で鬼隠し編の圭一の発言を羽入と同一視すると「隠し事がない(=奇跡を信じてる)」という前提が嘘になるんだと私は思う。