「可哀想」と「大丈夫」は言葉の意味は違うけど根底にあるニュアンスが同じだと思う

「可哀想」と「大丈夫」は理解ではなく共感・同情で言ってることが多いと思う
あくまで自分の生きてきた範囲での話で絶対ではないけど、「共感・同情から出た言葉」と「理解した上で言ってる言葉」は全然意味が違うと私は思ってる。
話が複雑になるから相手を理解することが加害になるかどうかは今回は一旦置いとくけど、共感・同情から出た「可哀想」は可哀想の対象と身分を固定することになりやすいし、理解した上での「可哀想」と「大丈夫」じゃないと「相手を記号・偶像ではなく人間として考えなくなる」のではないかと私は勝手に思ってる。
一方的に相手に踏み込んだら加害にもなり得るから、理解することが共感・同情より絶対的にすごいわけではないとは思うけど。

口癖で他者への影響を考えず「可哀想」と「大丈夫」を言うパターンは厄介だと思う
父親がどちらかと言えば「大丈夫」とよく言う方で、母親が他人のことで「可哀想」とよく言う方だった記憶が自分にあって、「言ってる本人のバイアス込みでの可哀想・大丈夫」だから理解した上で言ってたのか今となってはわからないなと思う。
言ってる本人のバイアスが掛かるから「実際より過剰に大丈夫・可哀想」と言ってて実態とズレてるときもあったんじゃないかと私は思ってる。