「自分が常識人かどうか判断するのは自分ではなく他人」という前提がないと「自分に非があるときも相手のせい」という認識になる気がする

※今回は自分と他人の話の両方です。

自分が常識人であることを免罪符」とする発想が「自分は常識人だから他人に対して自分に非がある失敗するわけがない」という思い込みを作り出してると思う
「自分が常識人かどうか判断するのは相手」という前提がないと「過去の自分が常識人の経験をしてたとしても、他人が自分を常識人と判断するかどうかは他人が決めること」という前提がなくなって、自分の常識ではありえない失敗を他人がしたとき鬼の首を取ったように怒ったり可能な相手の場合は何かを自粛させたり罰まで与えようとしてくるのに、自分が相手の常識から外れた失敗をしたときには「相手のせいでそうなった」みたいに「自分が相手の常識から外れたときに当事者であることから降りる」心理になるのではないかと私は思ってる。

個別の事例を具体的には書かないけど、みんなで決めたルールと無関係に「その人の独断で」原因ではない人に対して過剰に「自粛」を求めることが「指示待ち」をマッチポンプのように発生させることに繋がってる要素があると私は思ってる。

「謝っても許してもらえなかった」という経験から謝罪しなくなる事例もあると思う
最初に断っておくと謝罪したんだから絶対に許せという話ではなく、どれだけ謝っても相手が激怒して許してもらえないという経験が何度も続くとその許さない人とは同一人物ではなく別の人のときでも、「謝っても許されないから謝ること自体が無駄な行為」と無力感から間違った方向に学習して「全ての人類は謝っても絶対に許してくれないし、確実に自粛か何らかの罰を自分に与えてくるだろう」と決めつけて「自分の常識では謝罪は無価値だ」という発想になると私は思ってる。