葬送のフリーレンは「素でいい人」になろうとすると魔族・「いい人になることの怖さ」をわかってるのが勇者なんだと思う

※葬送のフリーレン11巻までの内容での感想・考察です

勇者でさえ「素」で完璧な人間ではなく、誰もが意識して自分の人格を作り上げてる世界観の物語だと思う
ヒンメルと南の勇者でさえ「素」で人格者(というか完璧な人)なのかどうか自分の中で疑問があって、その疑問と矛盾してるようだけど他の人々よりは勇者としての素質が高いのがヒンメルと南の勇者だと思ってて、フリーレンが報酬の魔導書を毎回もらう理由をフェルン・シュタルクに「自分(ヒンメル)に対して魔物退治の借りがある状態が相手にとって負担になるから、相手の負担にならない程度に報酬をもらってる(意訳)」と説明してたエピソードが今の自分にとって印象に残った話だったと思う。

ヒンメルは「他人に対して魔物退治等の人助けをしていい人という存在であることが相手への貸し(相手視点では借り)を作ってることになるから、それが相手への負担になる」ということを客観的に把握してることが「素・天然でいい人から出にくい発想」じゃないかと自分の感覚では思う。
フェルン・シュタルクの反応から逆算すると素でいい人の場合はよかれと思って報酬を一切受け取らない方を選択することが、少なくとも葬送のフリーレンの世界での普通なんだと私は思ってる。

魔族の言行不一致には特に厳しい構図だと思う
黄金郷のマハトがこの状況ではこう言うと学習した通りに言ってることにツッコミが入ったり、ソリテールもマハト(ヴァイゼの住民以外に対して)も一見まともそうなことを言ってるけど人間を〇してることもフリーレン達からツッコミが入る構図で、ある意味では「言行不一致の素・天然に厳しい」物語だと私は思ってる。