「委員長とヤンキーはお互いに関わったことで相手に偏見を持ってたことを自覚しました」という話は「あと何人〇せば人類を理解できるの?」と同じ構図ではないかと思う

※本記事は「葬送のフリーレン」と「のだめカンタービレ」のネタバレを含んだ自分の思ったことを書いてるので読む方は注意してください

「自分が偏見を持ってただけで相手はいい人でした」の構図は「相手を理解することは絶対的な善」という前提で出来てると思う
創作でも現実の例え話でも委員長がヤンキーとか派手な人に対して悪そうという偏見を持ってたけど相手と関わったらいい人だということがわかったという構図に自分は違和感あって、葬送のフリーレンで例えると黄金郷のマハトの「人類と共存するために人間を〇す」という言い分がそのまま肯定されてるような構図だと私は思ってる。
のだめカンタービレではオペラの練習のときに菅沼が態度の悪さから他のメンバーに性格悪いと認識されてその後に歌唱力についてのだめ達が「人間ってすごい」と感動する場面があって「のだめ達が菅沼の性格に対する自分の認識を否定してない」ことが面白いと私は思ってる。
のだめも千秋も実は菅沼を誤解してたというわけではなく菅沼は差し入れのスイーツをもらった直後に潰すくらい態度が悪い描写もあって、菅沼の言動に対して「実はいい人だったというオチもなく歌唱力(才能)が評価される」という点が物語で徹底してたところが自分にとって印象に残ってる。