創作は「自分のために自分を変える話」の方が自分の好みだと気付いたことについて

※この記事では創作での自分の好みについてと鬼滅の刃ゴールデンカムイのネタバレあります

自分のために自分を変えることが巡り巡って他人のためになる構図について
鬼滅の刃で炭治郎が時透に言ってた「他人のため(貢献)の行動は巡り巡って自分のためになる(意訳)」と真逆になってしまうけど(炭治郎の考え自体はアリだと思う)、「自分を変えることが間接的に他人のため(貢献)になる」というシチュエーションの方が好きだと自分で思う(どちらも成立するから好みも問題だと思う)

自分の見方では人間を全人的に描写してる物語(他の創作物を否定する意図はありません)であるゴールデンカムで鯉登が21巻以降は月島・部下達等の他人のためもあるかもしれないけど、「鶴見中尉の真意を探ろうとして鯉登自身のために生き方を自分で変化させていく(23巻の月島・谷垣とのやり取り)」流れが読み手である自分の感覚で自然に納得できた描写だったと思ってる。

鯉登と月島は自分の気持ちへのスタンスが真逆だと思う
鯉登の変化は「自分のため」という意図が強いと自分が思った理由は23巻の月島との会話で鯉登が「この二人を〇したら後悔と罪悪感に苛まれるだろう」と言ってて「鯉登自身の気持ちを優先」した結果として谷垣・インカラマッを見逃してる描写だから、鯉登が自分にとって「自分のために変化したことが他人のためになる」という印象が強いキャラになってると思う(逆に自分の気持ちを優先せず相手に貢献しようとするキャラが月島なんだと私は思ってる)

鬼滅の刃は「自分のために自分を変えることは悪」とする物語ではないかと思う
時透が炭治郎の「人のためが巡り巡って自分のためになる(意訳)」という考えに感化されるのとは逆に炭治郎が時透の「他人のことはいいから自分のすべきことに集中して(意訳)」という考えに感化されないメタ的な理由は「他人の存在抜きで自分のために自分を変えることは悪」という前提があるからだと私は思ってる。

伊黒が従姉妹達に言われた「生け贄の癖にあんたが逃げたからみんな〇された」という言い分がおかしいことはわかってても結局は受け入れる形になって「自分のために自分を変えられない」から、甘露寺の結末も伊黒のエピソードに引っ張られる構図になったと私は思ってる。